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一般社団法人 燃料電池開発情報センターのご案内

住所 〒101-0063 東京都千代田区神田淡路町1-19
お茶の水ビジネスビル 1階(101号室)

電話番号

03-6206-0231

FAX番号

03-6206-0232

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案内

下の地図の佐川急便の横の小路を入るとお茶の水ビジネスビルの看板が見えます。その1階です。

<一般社団法人 燃料電池開発情報センターへの地図>

最寄りの駅は、地下鉄 都営新宿線 小川町(おがわまち)駅、千代田線 新御茶ノ水駅、丸ノ内線 淡路町(あわじちょう)駅、少し歩きますが、JR 御茶ノ水駅です。また、少し離れた駅としては、JR 神田駅、秋葉原があります。

お茶の水ビジネスビルに到着されましたら、玄関左に設置してある「呼び出し盤」にて101を押してください。
そうしますと室内のチャイムが鳴りますので、遠隔操作にて玄関をあけます。

【FCDIC周辺雑記】

by may, 最終更新日:2016.5.5

 3.11大震災を契機に住まいや勤務場所の海抜高度や土地の安定性が気になった方は多いと思われる。尾池 和夫、「四季の地球科学――日本列島の時空を歩く」(岩波新書)を読まれると日本人が居住しているのは生活の基本である水が得られる場所であり、基本的には地震や水災害から無関係に生きて行くことは難しいことがお分かりになると思う。
地下鉄に乗ると、いざというときに洪水が押し寄せて来ないかとふと思ったりする。都内はビルや高速道路の高架で覆われて、土地の起伏を感じにくくなっている。最近刊行された、竹内 正浩、「カラー版 地図と愉しむ東京歴史散歩 地形編」(中央公論新社)は東京の大地の素顔と来歴を教えてくれる楽しい本である。FCDIC近辺については同書の8頁から、”神田に刻まれた深い谷”という項に記載があるのでご覧頂きたい。靖国通りが直線ではない理由や、御茶ノ水駅付近の深い谷は、昔は「三国志」の赤壁に因んで小赤壁と呼ばれたが自然地形ではなく、江戸時代に刻まれたものであると書かれている。なお、同じ著者によるシリーズ、「カラー版 地図と楽しむ東京歴史散歩 都心の謎篇」も“1 地図の空白、皇居の謎”、“6 幻の新幹線と弾丸列車”など、興味深いトピックスが満載である。併せてお奨めしたい。
 最近は各地の標高に関するデータが国土交通省 国土地理院のウエブサイトからダウンロードできるようになっている。精密基盤標高地図で、地方選択を関東、都市地図を千代田区として、まず、地図拡大縮小を1にすると地図の右の方に皇居のお堀が見えるので、それを中心にドラッグして拡大する。
FCDIC近傍の標高地図(下線部クリック)。

その他,Flood Maps : 海抜60mまでを表示できる.
因みに,新御茶ノ水駅B3出口には海抜8.4m,小川町駅A7出口には海抜4.7mと表示されている.

 また、ゼンリンバーチャルミュージアムには江戸開府以前から昭和後期までに作成されたさまざま種類の地図が約220個公開されている。

 さて、東京神田というと、地方の人には本屋街のイメージがあろう。しかし、江戸時代まで商業用地ではなかった。初期はいくらか寺院はあったが、徳川中期以降、寺院は神田から他に移され一寺も残らなくなった。従って墓地もなかった。更に町屋もなかったので、書籍の出版・販売を取り扱う本屋も一軒も見られなかった。何故なら神田は侍屋敷、少数の譜代大名、旗本屋敷の用地で占められて商業用地ではなかったからである。
江戸では、書籍出版や販売業は京橋から日本橋、さらに伝馬町方面にかけて集まっていた。    参考図書:脇村 義太郎、「東西書肆考」(岩波新書)

神田淡路町:地名は淡路坂に由来する。淡路坂は江戸前期に坂上西側に鈴木淡路守の屋敷が存在したことに由来。一口坂(いもあらいざか)、相生坂とも呼ばれた。一口坂は坂上東側にあった太田姫稲荷神社の旧称に由来。相生坂とは本来神田川を挟んで並行する坂との総称であるが、現在ではそちらの坂のみを相生坂と称する。

靖国通り:関東大震災の復興事業として作られた。旧称「大正通り」。
”「幹線一号」の昭和通りと「幹線二号」の大正通りは、当時の東京の下町を十字に交差した形となっていた。昭和天皇は、昭和通りに象徴される復興計画の縮小をずっと悔やんでいたらしい。震災から60年後の記者会見でも、「震災のいろいろな体験はありますが、一言だけいっておきたいことは、復興にあたって後藤新平が非常に膨大な計画を立てたがいろいろの事情でそれが実行されなかったことは非常に残念に思っています。もし、それが実行されていたら、おそらく東京の戦災は非常に軽かったんじゃないかと思って、今さら後藤新平のあの時の計画が実行されないことを非常に残念に思います。」と述べた程だった。”
    参考図書:竹内正浩、「カラー版 地図と愉しむ東京歴史散歩」、中公新書(2011).第8章 「未完の帝都復興道路」(””内は136頁の下りを写し書き)
神田すずらん通り:昔は、「表神保町小路」
     参考図書:竹内正浩、「カラー版 地図と愉しむ東京歴史散歩」、中公新書(2011).第8章 「未完の帝都復興道路」132頁

震災記念碑:東京メトロ千代田線新お茶の水駅B3出口。関東大震災後、“鐵筋混凝土四階建て”の東京商工学校なる建物が巍然として、雄姿を残し、避難復興の要所となった云々と格調高く文語体で記されている。碑の日付を見ると丁度震災1年後であり、地元の方々の感謝の気持ちが感じられる。震災時の共助の重要性が強調されることが多いが、住民の耐震・耐火設計への感謝の碑として取ることもできる。東京商工学校は現在の埼玉工業大学の前身であり、”近くのニコライ堂ともに「巍然」と聳え”、および建物は戦後明治大学に売却され、工学部聖橋校舎として昭和40年(1965)まで使用されたと同校のウェブサイトに書かれている。その後は当初地元の反対はあったが、都の指導調停・和解の上、建て替えられたと、現在の連合会館のサイトに記されている。
     参考図書:竹村雅之、「関東大震災を歩く 現代に生きる災害の記憶」、吉川弘文館(2012年)166頁。
     関連サイト:千代田区報No.1325、平成24年4/5日本災害復興学会2015年東京大会エクスカーション案内余弦と正接 熊本地震ーその後、その他、多くの方々の記事をネットで拾うことができる。

・幽霊坂:JR御茶ノ水駅から神田淡路町方向へ歩いて道路左手。神田淡路町二丁目。嘗ては木が繁り昼でも暗かったためこのような名前が付けられたらしいが、現在は標識のみ。

・観音坂:『東京名所図会』には”新編江戸志に、観音坂は埃坂の並び、むかし、茅浦観音寺やしきありし故に名づくなりと見ゆ。此の坂の上観音院という称する仏刹ありしことは寛永の古図を見ても知らるべし、新編江戸志に観音寺とあるは観音院の誤りなるべし”とかかれている。

・聖橋:御茶ノ水駅の東の端にあり、本郷通を千代田区の神田駿河台と文京区の湯島を結ぶ鉄筋コンクリートのアーチ橋である。名前は東京府東京市(現:東京都)が公募し、両岸に位置する2つの聖堂(湯島聖堂とニコライ堂)を結ぶことから「聖橋」と命名された。重要文化財の永代橋とともに関東大震災後の震災復興橋梁の一つとして昭和2年に完成した。
*葛飾北斎の富嶽三十六景の一つ、「東都駿台」はこの辺りからの眺めのようであるが、現在は高いビルが立ち並び富士山は見えなくなっている。 参考図書:大久保純一、「カラー版 北斎」、岩波新書(2012)。

ニコライ堂:本格的なビザンティン様式の教会建築といわれる。1891年に竣工。駿河台の高台に位置したため御茶ノ水界隈の景観に重要な位置を占めた。正式名称は東京復活大聖堂で、正教の教会である。ニコライ堂という呼び方は、幕末にロシアから正教布教ために来日し、明治初期に大聖堂建築を主唱したニコライ・カサートキン司祭(のちに大主教)の名に由来する。関東大震災で大きな被害を受けた後、一部構成の変更と修復を経て現在に至る。
夏目漱石の『それから』や、与謝野晶子、木下杢太郎(もくたろう)などの歌にも出てくる。
また、「ニコライの鐘」(作詞:門田ゆたか、作曲:古関裕而、唄:藤山一郎)も有名である。

神田教会:所在地 西神田1-1-12。カトリックの教会。カトリック東京大司教区に所属する、小教区の教会である。キリシタン禁教の「解禁」後に、東京で比較的早い段階から日本人のために開かれていた教会で、現在の聖堂は、国の登録有形文化財に登録されている。関東大震災で壊れたあとに建て直した。

山の上ホテル:所在地 神田駿河台1-1。GHQの接収解除を機に、旭硝子に勤務していた吉田俊男が開業した。かつて出版社の密集していた神田に近いところから、作家の滞在や缶詰に使われることが多く、そのため「文人の宿」ともなっており、川端康成、三島由紀夫、池波正太郎、伊集院静らの作家の定宿としても知られる。檀一雄は舞台女優・入江杏子と愛人関係になり山の上ホテルで同棲し、入江との生活そして破局を描いたのが代表作『火宅の人』である。(ウィキペディアより)
フロントには、ホテルを設計したヴォーリズを描いた絵本「ヴォーリズさんのウサギとカメ」の絵はがきが販売されている。
ヴォーリズは第二次大戦後の昭和天皇の処遇についてマッカーサーと交渉した。 上坂冬子、「伝わらなかった真実-女が振り返る昭和の歴史」(中公文庫)

学士会館:所在地 神田錦町三丁目28番地。国指定文化財。所有者は社団法人 学士会。
(・・・・・・・FCDIC第1回燃料電池シンポジウムはここで開催されました。)

・昌平橋 :所在地 神田淡路町2丁目 外神田1・2丁目。架設はきわめて古く、寛永年間(1624~1644)と伝えられている。

・第1KSビル:所在地 千代田区神田淡路町2-3。国指定登録有形文化財(建造物)。

神田明神:その由来には平将門が深く関わっている。将門の首を葬ったされる首塚は、今はビジネス街となった大手町にある。
大正12年(1923年)の関東大震災で焼失した。昭和9年(1934年)に鉄骨鉄筋コンクリート造で竣工。日本初の鉄骨鉄筋コンクリートの社殿である。

江戸の総鎮守としても崇められ、市中を山車が巡行する「神田祭」は江戸時代から、江戸三大祭り(神田祭・山王祭・深川祭)の一つとして大いに賑わっていたという。
2011年3月11日の東北大震災以来神田祭は行われていなかったが、今年、2013年5月11日~12日、4年ぶりに大々的に開催された。
FCDIC職員撮影の写真を数葉ご覧下さい。オフィス傍の交差点でのワッショイ!ハッピ姿のわんちゃん神田明神境内からスカイツリーが見えた!境内前の御神輿、千代田区長ご挨拶

世界最先端の大都会でこのような伝統的な行事が開催されるのも神田ならではと言える。『江戸っ子だってねー』『神田の生まれよ』『そうだってねぇ』という、広沢虎三の浪曲「石松三十石船道中」(清水次郎長伝)の名調子が思い出される。

神田川:JR御茶ノ水駅脇を東西に流れる。一級河川。荒川水系の支流である。東京都内における中小河川としては最大規模で、都心を流れているにも拘らず全区間にわたり開渠であることは極めて稀である。
「花(春のうららの~♪)」(滝廉太郎作曲)の、隅田川に注いでいる川で、上流部を神田上水、そして、中流部を江戸川と言う。
南こうせつの「神田川」は1973年にシングル発売。詞の中に「二十四色のクレパス買って~♪」とあるので、当時、公共放送で歌う場合は制約があったとのこと。

神田美土代町:町域北部は、神田小川町に接する。東部は神田司町に接する。南部は神田警察通りに接し、これを境に内神田に接する。西部は本郷通りに接し、これを境に神田錦町に接する。主に商業地。
「「神田」も「美土代」も、地名の由来は神社の領田。
(FCDICの以前のオフィスは美土代町に所在しました。)

※神田と言えば、そばとカレー。
神田まつや:いつも一杯だが、3時~5時が狙い目。予約不可。
老舗かんだやぶそばが昨年10月20日に営業再開となった。一度行かなくては。
牡舌亭:牛タンのお店。まずはテールスープ付きの牡舌定食だが、タンカレーもグー。
※淡路町付近は古くから続くそばの名店、慶応年間創業の江戸前寿司などの飲食店が今もなお営業していることも特徴。老舗の味巡りも一興?

※神田神保町の1~3丁目は、靖国通りを中心にして、北側が偶数番地、南側が奇数番地となっている。しかも、靖国通りに面しているところから順になっているので、靖国通りからどのくらい離れているかが直観的に把握できる。
神田神保町が、このような番地表記になったのは、関東大震災からの復興がようやく落ち着いた1934年(昭和9年)に行われた、区画整理による。この区画整理は、靖国通りの工事と並行したものであったとされている。このとき、番地の序列をめぐって争いが生じたらしく、その解決策として、奇数偶数に分けることで不公平感を和らげたと伝えられる。

※神田小川町の靖国通り沿いにはスポーツ用品店が多い。

※神田町名の由来については、以下のサイトを参照されたい。
1)神田町名の謎:フォーラムミカサ エコ ウェブサイト、新着情報
2)千代田区 町名由来板ガイド 地図からさがす(神田地区):千代田区ウェブサイト